星に願い、歌に祈る

 心地の良い風が吹く夏の夜、貴幸は砂浜に寝転がっていた。周囲はとても静かで、聞こえるのは波の打ち寄せる音と時折啼く鳥の声くらいである。彼は平和なこの空間で耳を澄ませながら夜空を見ていた。暫くしてふと、堤防の方へ顔を向けた時、国民服の男が歩いてくるのに気が付いた。
「榧か。どうした?」
 その姿が学友のものであることを確認すると、彼はまた夜空へと視線を戻した。
「最近此処にいると聞いてね。何か面白いものでもあるのか」
 そう云って、榧は貴幸の隣に座った。貴幸はやや面倒そうに返す。
「此処にいると落ち着くんでね。涼しいし、聞こえる音も心地良い。とても平和な感じがする。何よりも、星が美しい」
 空には天の川が大きくかかり、白鳥座、琴座、鷲座がはっきりと見えている。
「そうか。確かに美しくはある。何かあったよな。星は昴、彦星……、紫式部だったか」
「違う、清少納言だ。『星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて』。枕草子第二百三十六段。今見えているのは彦星だけだ」
 貴幸は溜息をつき、寝転んだまま背伸びをした。
「何でもいいさ。俺に文学は分からないからな。とはいえ、天の川の上側でこんなに輝いているのだ。清少納言もさぞかし感動したことだろう。織姫星より彦星の方が明るいし」
 榧の言葉に貴幸の肩が軽く揺れた。そして先ほどより一段大きく溜息をつき、「お前、それは織姫星だ」と呟いた。
「え? 清少納言はわざわざ暗い方を選んだのか? そんな回りくどい話があるわけないだろう」
 榧は笑い飛ばして信じようとしない。貴幸は榧の方に顔を向けた。
「そもそも清少納言は実際の星空を見ていない。星の名前を纏めた本から音韻が気に入った物を選んだだけなのさ」
 貴幸は額の汗を拭った。短く刈り上げられた髪が微かな星の光を反射して光る。
「それもそのはずだ、昴を選んでいるのに全天一明るくて美しい青星の名前が挙がっていないからな。勿論、青星の名前は件の本にはない」
 貴幸の説明に榧はようやく納得した。
「云われてみれば確かに。実は星の美しさを知らなかったというわけか」
「まあ、そんなものだろう。昔から日本人は星に興味を抱かなかったらしい。星が主題となる和歌も殆どない」
 貴幸は改めて空を眺めた。北側に見える北斗七星や山型星は薄雲がかかったのかすこしぼやけている。
「星は大昔からあったと云うのに。でも、殆どないと云うからには、いくつかあるのだろう?」
「そうだな。俺が知っているのは十首、そのうち七首が建礼門院右京大夫の作だ。例えば、『なにごともかはりはてぬる世の中に契りたがはぬ星合の空』。七夕伝説の和歌だからこの季節にはちょうどいいだろう」
貴幸は織姫星と彦星を指さす。
「すべてが変わり果ててしまった世の中でも、星と星が出会う七夕の約束だけは変りませんよといったところだ」
 丁度、二つを繋げるように天の川に流星が走る。
「おお、流れ星。しかも凄く場所がいい。昔も同じように二つを結ぶように流れたのだろうか。そうしたら二人が逢っているように見えたのかもしれないな」
 榧は今まであまり意識しなかった星の魅力を全身で感じ取っている。しばらく流星の余韻に浸っていたが、何か思い出したように貴幸の方を見た。
「でも、これは星空の美しさを詠んでいるわけではないじゃないか」
 貴幸は西の空の地平線の更に向こう側に目をやった。数時間前まではそちらに青星などの冬の星が傾いていたはずだ。再び西から南、東へと首の向きを変える。
「ならばこちらはどうだ。『月をこそながめなれしか星の夜の深きあはれをこよひ知りぬる』。恋人だった平資盛が源平合戦で戦死した後に詠んだ歌だ」
 微かに磯の香りが漂う。海面は少しずつ二人に近寄っていた。
「資盛の喪失と共に初めてその気持ちに気が付いたことと、夜空の主役である月だけでなく星空も美しいということの二つの意味が同時に表されている。俺が一番好きな歌だ」
 貴幸の顔は言葉に反して少し暗めだ。榧には波のせせらぎが大きくなったように感じられた。
「どうかしたのか? 突然浮かない顔をして」
「今は戦時中だ。中には家族を失った人も多くいるだろう。この和歌が広く知れ渡っていれば悲しみを癒せる人がいたかもしれないと思った。お前はどう思う?」
「一人くらいは居てもおかしくない。夜空は美しいから」
「俺がこの歌を知ってから、無数の星が遠くから見守る魂に見えることがあった。病死した母親も、戦死した父親も空にいるのかもしれない」
 潮が満ちてきたので、二人は帰ることにした。貴幸は星を共に見る友人ができたことに非常に満足していた。
翌日の夜も榧は海に行った。家で星にまつわる本を探したが、文学にも星座にも疎い彼がそのようなものを持ち合わせているはずもなく、結局手ぶらで行くことにした。数分後、貴幸もやって来た。ただし昨日よりも時間が遅く、疲れ切った顔をしている。だが、榧の顔を見るなり表情が穏やかになった。
「なんだ、また来たのか。他の奴は星を見るのに一時間ともたないのだが」
 言葉ではそう云っているが、どことなく嬉しそうだ。
「お前の話が面白いからだ。和歌の知識など全くもってない俺でも星の美しさは分かる。星について詠まれた和歌なら、いくらか興味が湧くのも当然だろう? 今日も何か話してくれよ。建礼門院太夫以外の三首のこととかさ」
 貴幸は昨日と同じ位置に寝そべった。波は遠くへ引いている。榧もその隣へ座る。
「古今和歌集の紀有朋の歌はどうだ。『あひ見まく星は数なくありながら人につきなみまどひこそすれ』。逢いたい気持ちは星の数ほどあるのに、手だてがないので、惑うばかり、と云ったところか。星は主役ではないが、この歌は数えきれないものを『星の数ほどある』と表現することの原点かもしれない」
 空で無数の星が明滅した。大気の揺らぎのせいだが、二人には消えゆく魂の灯に感じられた。
「星と魂はどちらが多いと思う?」
 榧は一瞬戸惑ったが、考えを巡らせ答えを用意する。
「昨日、星が見守っている人みたいだと云っていただろう? 同じではないかと俺は思う」
「そうかもしれん。が、星が増えるとはあまり聞かないのに対し、魂の数はどんどん増えるから、微妙だ。もし星がすべて魂なら、戦死した数だけ増えないとおかしい」
 なんとなく悪い予感が榧を襲う。貴幸が浜に来た時のことを思い出すと、妙に疲れ切っていた。それは出発の用意をしていたからではないか。暗雲を必死に頭から振り払おうとしたとき、貴幸が口を開いた。
「赤紙が来た。出発は明後日。できればこっそりと行きたかったのだが」
 榧は言葉を発せなかった。ただ黙っていると、貴幸は上体を起こして彼の方を向く。
「絶対に戻ってくる。行先が南だったら、此処からは見えない星の話でもしてやるさ」
 二人の足まで潮が満ちてきているが、二人が動こうとする気配は無い。
「どうして、云わなかった」
 榧の目から星光を反射する滴が海面に落ちていき、波に飲み込まれて消えていった。
「まだ死んでもいないのに泣くなって。涙を注ぐのは亡くした者に対してだけでいい」
 榧は袖で涙を拭い、貴幸の肩に右手を置いた。
「絶対に涙を流させないでくれよ」
 榧には返す言葉が他に見つからなかった。貴幸は手を退けようとせず、逆に自分の手を榧の肩に乗せた。
「そうだな。約束する。俺は身体も丈夫だし、頭だって悪くない。きっと大丈夫だ」
 辺りは次第に明るくなっていった。潮が満ちていく海から離れ、薄っすらと紫色に染まった北の空を二人は無言で眺める。別れ際に榧は何かを云おうとしたが、貴幸はさっさと帰ってしまった。
 出発日の早朝、まだ日が昇ったばかりの時に、二人は駅で顔を合わせた。二人とも決意の表情が固まって涙は全く浮かんでいない。
「いよいよだな。場所は南方だ。見送り、感謝する」
 榧はポケットから小さな御守り袋を取り出し、貴幸に手渡した。
「千人針はできなかったが、せめてこれだけでも受け取ってくれ。中には百人一首十六番、中納言行平の歌の木札が入っている。行方不明になった人が戻って来るおまじないに使う歌だそうだ」
貴幸はほんの少し、表情を緩めた。
「それは家出した猫に使うおまじないだ。全く、お前は勘違いが多いな。でも、よく探してくれた。大切にするよ」
 榧に背を向け数歩進んだところで、彼はふと思い出したように振り返った。
「あの夜のうちに、すっかり涸れてしまったようだ。でも、そちらのほうが良かったかもしれない。生きて帰ってくるのに涙は要らないからな」
返答を待つ間もなく貴幸はそのまま列車に乗り込んだ。列車が動き出すと、榧は声をかける代わりに精いっぱい日の丸の旗を振って見送る。だが、貴幸が榧の方を振り向くことはなかった。
 夏は比較的穏やかに事が進んだ。大本営からは南方の戦果が次々と発表された。代わりに赤紙が配られる数が増え、榧の同級生も半分以上が出征した。秋の中頃には、榧を含めても数人しか残っていなかった。戦況の発表は間が開くようになり、町の中でも徐々に不安が伝染していった。
 寒い風が吹き、雪も降り出すだろうかといった頃、突然榧の元に手紙が届いた。正規の輸送路で運ばれてきた手紙ではないようだ。消印が呉であるから、偶然居合わせた兵士に預けて出してもらったのだと思われる。
 榧は海へと出かけ、堤防に腰掛けた。冬の海は荒れており、波の音が轟々と響いている。星が出ていることを確認すると、彼は貴幸の手紙を読み始めた。
 
拝呈 初冬の候、変わらず元気でいますか。俺は五体満足とまではいきませんが、この手紙が届くころにはそんなことも気にならなくなることでしょう。今ラバウルに配置されています。南半球ですから、此方では夏です。寒いのは嫌いですが、かといって暑すぎるのも困りものです。
 さて、今日は学友に手紙を書く許可を頂きました。普通の人なら家族に書くのでしょうが、俺の家族は皆逝っていますから、唯一の親友を選びました。作戦に関することは一切触れるなと命令されていますので、約束した南の星空について書くことにします。
まず、南半球は季節が逆になるということはご存知だと思います。だから、俺も冬には蠍座や射手座が見えるものだと勘違いしていたのですが、どうやら南半球の夏には国でいう冬の星座が見えるようです。これにはとても驚きました。空を見ると青星や源氏星、平氏星が見えます。白いほうが源氏星(リゲル)、赤いほうが平氏星(ベテルギウス)、青いほうが青星(シリウス)ですよ。いつかの織姫みたいに間違えないように。そちらでも見えるということを思うと、俺はまだ貴方とつながっているのだと感じられとても心強いです。また、南十字星が見えています。此方は日本からは見られないのですが、これが大変素晴らしく整った形をしています。現地で聞いた話によると、偽十字と南十字があって紛らわしいからよく間違えるとのことです。俺には区別できました。
こういったことを書ける親友を持てた俺は幸せです。他の友人たちは星の美しさを知りませんから。それだけでなく、貴方は俺が和歌を好きだと知って、御守りまで用意してくれました。星を理解してくれる人も、和歌を理解してくれる人も珍しいのです。家族を亡くした俺にとって、一番大切な存在です。
 そんな貴方に一つ頼みがあります。夏の日に語ったように、夜空を見る習慣をつけてください。流れ星に願い事を託すことができますから。もしも消えてしまって間に合わないなら、一番星の夕星でもいいでしょう。俺は今夜、偶然に流れ星を見ました。南から北に向かって流れていたので、日本にいる人々の幸せを願っておきました。とても長いこと空を横切っていたので、きっと本土まで運んでくれるでしょう。
最後になりますが、一首だけ短歌を詠みました。拙いものですが、どうか見て欲しい。そう、あの夏の日の話の続きだと思って。これで俺の知っている星を詠んだ短歌が一つ増えますから。
 
    嗚呼、空にリゲルが光る学友よ
遠く向こうの海で見てくれ
 
  拝具
  昭和十七年師走元日     真白貴幸
  大本榧様
 
 榧はその手紙を何度も読み返した。空を見上げ、どれがリゲルかじっと目を凝らして探す。隣の星と比べて辛うじて白色だと分かる明るい星が、貴幸が見ていたものだと確信を得た。
貴幸の短歌を声に出して読み上げながら、砂浜にひらがなで綴っていく。五、七、五、七、七……分かち書きした各句と手紙とをしばらく見比べて、ようやく彼の遺した言葉に気が付いた。
「貴幸、約束を破るなんてお前らしくないな。この期に及んで『ありがとう』か」
 手紙の上に滴が落ちていく。文字が滲んでしまうからと、彼は首を上げた。行き所を失った涙は彼の服を濡らしていく。
 ふと見上げた空に、流れ星が南に向かって一直線に横切った。一瞬のことではあったが、榧は迷うことなくただひたすらに貴幸の冥福を願った。

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