機械仕掛けの銀時計
目次
――冬は魔法の季節。願いが叶うただ一つの季節だから。
会社の帰り道、駅のホームで寒風に吹かれながらその言葉を思い出した。そういえば、彼は世間でいう変わり者だったと思う。好きだと言ってくれたことは一度もなく、話をするときも決して目線を合わさず、ずっと窓の外を眺めながら会話をしていた。
車両到着の放送が流れ、駅に電車がやって来た。帰宅ラッシュはとっくに過ぎて、席はがら空き。私は自然とドアに一番近い席の窓側に座った。そういえば、彼は店に行った時も、バスや電車に乗った時も必ず窓側に座っていた。普通の人はほかの男から守るために奥に座らせると聞くけれど。
一昨年、『星が綺麗だから』って、雪の積もった山奥に連れて行かれた。あの時、彼がオリオン座とか、牡牛座とか教えてくれた。私は必至で同じ指さす星を見ようとしたけれど、どれが正しかったのかその時はわからなかったと思う。
『昴。外来語っぽいけど和名。君の誕生星座の牡牛座にある。何個見える? 僕は六つ。……七か。凡人だね。昔、二十五個も見えた人がいたらしいよ』
最後に、北極星が見えるねと言って、首に提げていたあの機械を自信ありげに手に取ってつぶやいた言葉だったと思う。
願いが叶うとは言っていたけれど、どうしてそう考えているかはついぞ教えてくれなかった。クリスマスだから? それとも占星術的に何か特別だったからなのかしら?
さて、あの機械の名前が思い出せない。時間を測るためのもので、それが季節と星の動きを計算するために使われていた、というところまで覚えているのに名前が思い出せない。
電車は最寄り駅に到着した。風が吹きさらすホームへ降りて、そのまま改札を抜ける。ふと駅前の商店広告が目に留まる。下の方に書かれていたフリーダイアルは0120……。というところ。そうだ、あの機械はダイアルだった。何とかダイアル。
駅から自宅までの暗い道を歩きながらその名前について考える。
北のダイアルだからノースダイアル……ではなかった。でも近い気がする。根拠はないのだけれど。家に帰ってもあのダイアルの名前は思い出せなかった。歯磨きと化粧落としをしつつ、もう一度考え直す。
着替えて、ベッドに横たわるまで続けたけど、答えはでない。一度本気で惚れた男の言葉を忘れてしまったのは癪に障るけれど、仕方がない。視界が少しずつ黒く染まって、私は眠りについた。
彼が首からぶら下げている小さな機械を私に見せる。機械とはいっても複雑な形の歯車が組み合わされたものでは無くて、真鍮製の部品数個で構成されていた。
「ノクタナール・ダイヤル。直訳すると夜の時計、和名は星時計。北斗七星の傾きと季節、経度から時間を調べる道具」
あまりにも自信ありげに話す彼。でも別に凄いとは思えない。思ったことが表情に出たのか、彼は少し残念そうな顔をした。
「確かに今は使う人なんていないし、持つ意味もない。でも、これと比べて見て。秒はないけど結構精度は高いよ」
今度はコートから銀色の懐中時計を取り出して、横に並べた。確かに時刻は近い。十五分もずれているけれど。
「あまり驚いていないね」
「差が十五分もあるのは精度が高いって言わないでしょ」
「それは標準線との経度差があるからだよ。そういうところも含めて、僕はこの時計が好きだ」
彼は時計をポケットに放り込み、星空を眺めた。視線を追ってみるととても綺麗。冬の星空は明るい星が多いのと早く暗くなるのとで一番美しく見えるのだといっていたのを思い出した。
「冬は魔法の季節。願いが叶うただ一つの季節だから。星を君と綺麗に見たいっていう願いは成就したよ」
ジリジリジリ……。目覚まし時計の音で目が覚めた。そうだ、星時計。まさか夢で思い出すなんて。うわさではよく聞くけれど、こんな経験は初めてだった。
冬に願いが叶った。あの男の言うとおりになってしまった。嬉しいのだか、憎らしいのだか複雑な気持ち。
少し変則的だけど朝風呂に入る。いつもよりも朝の目覚めはよかった。一度着替えて、朝食を作る。今日は休みだから寝床でのんびりしていても良いのだけれど、どういうわけかそんな気になれなかった。
朝はごはんとお味噌汁。具は麩と大根。彼が好きだった具。私に作ってくれた最初の料理だったはず。豪華ではないし洒落たものでもないけれど、それが彼らしい。
昔は自分で料理を作ることは無かった。惣菜や外食で済ましていたから。でも、彼が料理を作ってくれるから、教えてくれたから自分で作るようになった。
どうして二年も前に別れた男のことばかり考えているのだろう。もう好きではないはずなのに。
気が付くと朝食を食べ終わっていた。味は覚えていない。食器も知らないうちに洗ってしまっていた。部屋に飾られた置時計の針は二本とも真上を差している。 ずっと放心状態だったということかと思うと少し悲しくなった。冬が来たから、彼を思い出してしまったから。とても、空しくて。
ふと、別れる前の出来事が頭の中によみがえってきた。
彼が結婚の話題を避けていて、本当に私のことが好きだったか判らなくなっていたときのこと。もやもやした気持ちの行き所が無くて、私が彼をやつあたりぎみに突き放したのだった。
私、最低じゃない。自分が振った男にもう一度愛してほしいと思っているなんて。彼と別れてからこの二年、一度も新しい男はできなかった。自分から恋することもなかったし、誰からも告白されることは無かった。友達の中にはもう結婚して子供がいる人もいるのに。
目から少し涙が零れる。どうしてこう悲しいの? どう向かっていけばいいか判らない。やっぱり彼にもう一度会いたい。もう一度愛されたい。冬に願いが叶うなら。私は彼にもう一度会えるはず。
スマホをいじり、「クリスマス」で検索する。私の期待した答えはすぐに帰って来た。近隣の、あの天文台で開催される予定の観望会。その案内サイトをタップする。
『毎年、聖夜には天文台で観望会が開かれるんだけど、今度一緒に行かない? 星がとても綺麗だから』
『知ってる? 山羊座と牡牛座は相性がいいんだよ。冬の星座といえば牡牛座、冬の誕生星座が山羊座。面白いよね。クリスマスはちょうど山羊座が始まる日。君が牡牛座なのも運命かな』
別れる前に言っていた言葉を思い出す。毎年と言っていたのだから今年もいるはず。
ホームページでの案内によると、人数の制限は無いし、申し込みもいらないけれど、入館料が必要らしい。大人一人で千円少し。行ってみようと思い、壁のカレンダーを見る。十二月二十四日、ちょうど明日だ。一度は冷めた恋心が私の中で躍る。
翌日、月が綺麗な夜。タクシーで天文台へ行く。調べた通り、もう観望会は始まっているらしく、騒めいている。まずは建物の方へ足を進め、受付で展示室の出入り証と観望会の案内を受け取る。そして、天文台へ出た。
職員らしき人たちが沢山の子供に囲まれて星座の解説を行っていた。ちらほらと、牡牛座とかオリオン座とか聞きなれた名前が耳に入る。私はその人の後ろを通り過ぎ、一番端に移動する。
ゆっくりと一人一人の服装を確認していく。そして、一人で南の空を眺めていた人が気にかかった。彼の視線方向にあるのは、牡牛座の昴。ベージュのコートに中折れ棒。胸ポケットから襟に伸びる銀色のチェーン。首に下げられた星時計。こちらを向いていなくても分かる。間違いなく彼だ。
後ろから近付く。彼は私に気が付いていない。二メートルが二百メートルにも感じられる緊張を乗り越え、話しかける。
「久しぶり。元気にしてた? やっぱりここにいたんだ」
彼は振り向いた。一瞬驚いていたが、付き合っていた時と同じ顔で微笑んだ。まるで、待ち合わせで時間通りに会えたとでもいうかのように。
「メリー・クリスマス。やっぱり、冬は魔法の季節だったね」
彼が小さな黒い箱を差し出した。ラッピングはされていない。文字の刻印もない高級感漂うものだ。別れて二年も経っていて、しかも今日初めて会ったのにクリスマスプレゼントを用意してくれているなんて、いったいどういう決意で待っていたのだろう。
「今、君に僕以外の男がいなければここで開けて欲しい。もしいるんだったら、今は閉ざしたままにしておいて」
頷いて箱を開けると、月明かりで鈍く光る銀色の星時計が入っていた。彼がいつも持っているものと同じ形だけれど、色と質感が異なっている。もちろん、彼の持つものと違って新しいし傷もついていない。
「ずっと待っていたの?」
「うん。まあ、実はここで待つのも今年を最後にしようと思っていた。寂しかったよ。これ、別れる前に買っていたんだ。プロポーズ用にね。婚約指輪より実用的。結婚指輪はちゃんと別で用意する」
彼が笑う。やっぱり、彼は私のこと、ちゃんと好きだった。
「結婚する意志はあったの? てっきり結婚するつもりが無いのかと思ってた。実は、私、まだ、あなたのことが好きなの」
目から涙が零れていくのが分かる。彼はハンカチで私の涙を拭きとり、星時計を私の首に掛けてくれた。
「まあ、何にせよよかった。今日叶った願いは、言うまでもないね」
そう云って、彼は私を抱きしめた。彼の体のぬくもりが伝わってくる。月明かりの元、首から下げている金と銀の星時計が絡み合っていくのが見えた。それは、まるで私たちの姿を映し出すように。
「改めて、三年越しのプロポーズだ。結婚しよう」
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