大漁の禁忌

 いつも深い霧に包まれ、熟練の船乗りでも迷う海がある。その海域は漁師たちの間では霧の海と呼ばれている。霧の海にはいくつかの謎や伝説が伝えられている。それは、そこで幽霊船を見たとか、漁師が行方不明になったなどである
 濃霧の中心には島があるらしい。昔、父はその島に行ったことがあると語っていたが、それ以上のことをいう気はないらしかった。話してくれたのは、その島に神社が立っていたという程度。結局、父は詳しく話さなかった。
 私はいつかその島に行ってみたいと思っていた。そして何故神社があるのか知りたかった。深い霧にずっと包まれていては誰もたどり着けないし、そこに住むこともできないだろうから。でも、辿り着きさえすれば秘密もわかるかもしれない。そう思ったからこそ私は、海野家の伝統にしたがって漁師を継いだ。だが、父の存命中は決して霧の海に行かせてくれなかった。
 父亡きあとはたびたび霧の海の近くで漁をする毎日が続いていた。なかなか霧の海の中には入れないでいたが、いつかは入っていき、自分の手で謎を解き明かしたかった。同じく漁師である叔父はあの近くは危険だからやめておけと言っていたが、私は忠告を無視し続けた。
 今日は、叔父と対談を行っている。先週、私が霧の海に入ろうとしていたところを見つかってしまったのだ。自宅の一角にある和室の、海風の影響で茶色くなった畳にそのまま正座し、机を挟んで向かい合っている。
「弘人が霧の海の中心に行ったことがあって、海斗がそれに興味を持っとるのは知っとる。でも、あの話は忘れろ」
 説教の時、最初の言葉はいつもこれだった。叔父は知る限り父を疑ったことはなく、「海斗を決して霧の海に近づけないように」という父の遺言を律儀に守ろうとしていた。
「どうして? 知りたいものは知りたい。霧の海に何があるか知りたい」
 部屋の外から鳶のピーヨロと鳴く声と打ち寄せる波の音の連鎖が耳に届く。開け放された窓はいつもこの家に潮の香りを運んでくる。
「だめだ、もう二度とするな。ええか」
 納得はしたくないが、反論もできずどう返事をするのをためらっていると、叔父は立ち上がって入り口のほうへ歩いて行った。
「だれた。ちょっと休むから、邪魔するな」
 叔父は戸を乱暴に開けて自分の寝室に向かっていった。私はため息をつき、明日の漁の計画を頭の中で考える。叔父の言葉などさらさら頭に残ってすらいない。あの人が起きるまで一時間程度だろう。それまでに明日の天気や風向を調べようと思い、スマホを取り出す。天気は良好、風はほとんど吹かなさそうだ。明日出港さえ出来れば霧の海に行くことができる。帰り際に何か魚を取らないと食べていけないので漁業道具も持って行かないといけない。
 結局、叔父が起きてくるまでに明日の漁業計画は出来上がってしまった。叔父は部屋に入ってくるとさっきの話はまるでなかったかのように夕食に何が食べたいか聞いてきた。いつもそうだ。たいていはこちらの意見をほとんど聞かず、休憩をはさんでなかったことにする。私は我慢ならずいつもにない冷静さで叔父にはむかった。
「明日、沖合に出ようと思う。たぶん二、三日は戻らんけど心配せんでよ」
 その言葉を聞いたと同時、叔父の顔が一瞬で引きつった。
「わや、二度とすなと言ったろ。弘人の思いを踏みにじると?」
「どうしても知りたいとよ。なんども言っちょる通りよ」
 やはりこの話題になると言い争いになってしまう。普段は仲の良いのに霧の海が関わると意見が割れる。叔父はしばらく黙っていたが、もう自分では判断できないと思ったのか壁の父の写真のほうを向いた。
「どんげすかい。兄さんの遺言は役に立たんかもしれん。この子は本気ぢゃ」
「叔父さん、私の人生だから好きに決めさせてな」
叔父の背中は普段よりも小さく思えた。逆に父の写真が普段よりも大きく見えた。叔父は幾度と口を開き替えては閉じることを繰り返した。叔父は軽くうなずくと、それ以上何も語らなかった。私はそれを許可だと受け取った。

 次の日、曙の港を他の漁師と一緒に出港する。叔父も家を同時に出たが、口を開くことはなかった。
  第六海野丸
 船に乗り込み、冷蔵庫に事前に購入しておいた食材と水をすべて積み込んでいく。一週間分の量を一人で積むのはさすがに骨が折れる。全て積み終わったら燃料を補給し、エンジンをかけて舫を解く。急いで操縦室に移動して船を動かす。本来は六人程度で乗る船を一人で乗っているのだから、作業量は単純に六倍だ。
 向かう先はとっくに決まっている。私の占有漁場である霧の海周辺からさらに奥。目の前には、周りの完璧な天気とは対照的な濃霧に包まれ海鳥すらいない暗い海が広がっている。ここから霧の海に入るのだ。
 霧の立ち込めた海に向けて転舵し、こぎ進めていく。入ってみて改めて思った恐ろしい海域だ。船先も見えないほど濃い霧は人間の不安を煽る。言い伝えの半分くらいは本当かもしれないと思いつつあった。
 入ってから一時間ほどたったころ、船が暗礁か何かに乗り上げ止まってしまった。急いでエンジンを切る。エンジンを切ったと同時、船の甲板に一人の女性が立っていたのを見た。一目で美しいと思った。どこか懐かしく、深い瞳。背中まである濡れた黒髪。よく見ると下半身は鱗に覆われた蛇のしっぽのような姿で、甲板の外へはみ出している。軽く見積もっただけでこの船を巻き上げることができるほど長い。
「海斗……」
 その女性は窓ガラス越しに私にそう語りかけた。私の心が求めていた何かが彼女にあるような気がした。もっと近くに行きたいと思ったとき、彼女は甲板から海に潜っていった。彼女が消えると同時、暗礁に乗り上げていた船体が大きく揺れ、海に戻った。悲鳴は気が付かないうちに聞こえなくなっていた。
 なんだったのだろうか、あの不思議な出来事は。だが、まさかこの程度の出来事が危険なものとは到底思えない。本当に危険なのであれば、とっくに死んでしまっているだろうし、一瞬だった。
 しばらく進むと霧が晴れ、開けた海に出た。自分の位置を確認しようとGPSを起動したが、反応がない。太陽は一番高く上り、水面に光のじゅうたんを作り上げていた。
 私の目には鳥居のそびえたつ小さな島が写っていた。神社以外のものは一切作られないくらいの小ささだ。一瞬でそれが求めていた神社だと悟った。すぐに島に向けて船を動かし、船を島の傍に泊める。
 岩場から直接伸びている階段を上り、入り口に立つ。狛犬はないが、代わりに蛇と龍が置いてある。しめ縄が一度も張られたことのなさそうな鳥居には神社の名前も書かれていない。ぼつぼつと境内を進み、ふと墓が奥にあるのに気が付いた。
 通常、神社に墓はない。穢れを忌む神道は葬式を行わないからである。
 歩み寄ってその墓石に刻まれた字を読む。
  海野家之奥津城
 墓石の隣、石碑にはいくつもの名前が刻まれている。どれも苗字が海野から始まっている。さらに、一番右には父の名前が彫られている。何故ここに父の名前が刻まれているのかはわからない。が、よく考えれば父の墓がどこにあるのか叔父からは聞いていない。お盆参りなども海に向かって言葉をかけるので、散骨したものだと勝手に解釈していた。
 戸惑う私の肩に、誰かの手が置かれた。
「海斗、お帰り。此処に来られてよかった」
 振り向くと、先ほどの女性が後ろにいた。どこか懐かしく深い瞳、背中まである濡れた黒髪。違うのは下半身は蛇のような姿ではなく、人間の足であること。布切れを巻いているが、それはほとんど何も着ていないに等しい。彼女は私の方に寄り添って、抱き着いてきた。その手からは海底のような冷たさを感じる。
「弘人は私に盾突こうとしたけれど、海斗は私といてくれるかしら。お母さんの頼み事だから、聞いてくれる?」
 私の母は物心ついた時にはいなかった。父はいずれ話すといいながら、結局話すことなく逝ってしまった。ずっと疑問であったが聞くことなく、いつしか気にしなくなっていた。その母の頼みとは何だろうか。そう思ったとき、その心情を察したかのように彼女が話した。
「靖人から聞いていないの? 私よ、私」
 言っている意味が分からない。ふと、その顔を見ると彼女の顔が曇っていることが分かった。
「ねえ、もしかして靖人まで弘人の味方なの? 私のことを黙っていたのね。お母さんは悲しいよ」
 彼女は私から手を放して墓石の方へ行き、そこへしゃがんだ。
「弘人、あなたは一番出来の悪い子。でも、一番愛おしい。いつもいつも、私から逃れようとして」
 墓石を優しく撫でると、再び私に近づいてきた。
「私はおまえの母親です」
 聞き間違いかと思ったが、何を聞き間違えるとそうなるのだろうか。仮に母だとして、いったい何を意味するのか分からない。とにかく、意味の分からないことだらけだ。
「弘人も靖人も何も伝えていないのね」
 つぶやくような悲しみに満ちた声。私の心を刺激して、寒気を催す。傷つけたくなかった。
 何も言えず、戸惑うばかりの私。その後ろから誰かが、近づいてきていた。
「海斗。もう会ってしまっていたのか。馬鹿者が」
 振り向いたところ、後ろにいたのは青ざめた顔をした叔父であった。彼女もその顔を見て懐かしそうな顔をした。
「あら、靖人。来てくれたのね。海斗に何も伝えなかったなんて、あなたまで私に歯向かうつもり?」
「海斗には自分の人生を自分で決める権利がある。わいはもう逃れられないが、せめて海斗は濡れ女……」
「黙りなさい」
 彼女の一言で叔父が沈黙した。叔父の肩が小刻みに揺れている。
「私から生み出された半人間が、人として生きられるはずがないのよ。今は何も問題はないかもしれないけれど、五十を越えたら死ぬのだから。私の糧となって、短い一生を終えるのが一番。どうしてそれが分からないの」
 彼女は神社の縁側に座り、私の方を向いて話を始めた。
「昔、海野政人という人がいました。彼はごく普通の漁師でした。ある日、彼は浜辺にいた海の神様を見てしまいました。姿を見られた海の神様は彼を殺そうとしましたが、彼は何を思ったのか海の神様に対して恋心を抱いてしまっていたので、神様は殺すことができませんでした。いつしか、二人の間には子供ができました」
 叔父は涙を流してその話を聞いていた。私にはよくわからないが、叔父にとっては何か大切な話なのだろう。
「その子供は彼の手のもとで無事に成長し、青年になりました。父となった政人は、我が子の目の前で海の神様と禁忌の契約を結びました。その内容は、仲間の漁師たちに大漁を保証する代わりに、代々生贄をささげるというものです。海の神様との間に代々子供を作り、海の神様が成長した順番に食べるのです。海の神様にとってもそれは利益がありました。生まれてくる子供は少しずつ神様の純度が高まっていきます。それは最終的に次の神様が生まれるということです」
 もしかして、それは私の家のことを言っているのだろうかと思った。それを察したかのように彼女は冷淡に告げた。
「私は濡れ女。海を司る大妖、海の神です。政人が結んだ契約によって、あなたは私との間に子を作り、次の生贄になるの。海斗、わかってくれるかしら」
 叔父を横見したが、頷かれただけだった。
「海斗。私との間に子供を作りましょうね。待っているわ」
 彼女は鳥居をくぐって、海へ飛び込んで消えてしまった。叔父が私に近づいてくる。
「自分の人生は好きに生きたいと弘人は言った。だがな、弘人は結局逃げられなんだ。だから、せめて次の子に希望を託そうと思っていた。お前はその努力を踏み躙ったんだ」
「だから、どうして私が定められた生き方を回避したいと思うね。定められた生き方を選ぶのだって私だろうがね」
 それ以上、私には何も言うことはなかった。叔父は私の反応に対して呆れた顔をして、それ以上の反応をすることはなかった。定められた人生を回避する? 私はそれを望む気はない。そもそも回避させようと秘密を隠すことこそ、私から選択を一つ奪っているのではないか。だから、父への見せしめとしても濡れ女に身をささげようと思う。
 叔父は奥津城の清掃を行った後、自分の船で港に帰っていった。

 帰る途中、濡れ女に出会った。今度は甲板に出て、直接対面する。その冷たい体を抱き寄せて、彼女との距離を零にした。
「海斗、ありがとう」
 彼女の手から子供を受け取り、港に向かって帰っていく。
 港にたどり着いてからは、叔父を二度と見ることはなかった。
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